夕暮れ舞妓ダービー

 三月下旬、僕は京都の花街に一人佇んでいた。

 フォトコンテスト用に、石畳を歩く舞妓の後ろ姿をカメラに収めようと京都まで出向いてきたが、まだ一枚も撮れていない。

 たまに見かけるのは舞妓のコスプレをした観光客ばかりで、本物の舞妓とはついに出会えなかった。

 日が傾き始め、祇園四条駅に近い花見小路からは、次第に人通りが消えてゆく。

 夜になればお茶屋に集まる客によって喧騒を取り戻すのだろうが、今はちょうど、昼と夜の境目だ。

 なんとはなしに辺りをぶらついている間に、スマホの時計は午後四時三十分を指していた。自然、焦りが募る。

 これで最後にしようと、花見小路の始まりからもう一度歩いてみたが、結局、舞妓は見つからなかった。

 通りの突き当たりにある寺院の門の前で、バッテリーだけが減ったカメラを眺める。

 明日の朝には地元に帰らないといけない。疲労感がずっしりと体にのしかかる。

 そのとき視界の端に、鮮やかな黄緑色の着物が映った。それは寺院の敷地内の方だった。

 僕は、まだ開いていた門から、砂利敷きの寺院へと足を踏み入れた。

 若葉色の着物に身を包んだ舞妓は、小さな鐘楼の前にいた。白く塗られた幼い顔立ちに、後ろでまとめた髪と菜の花のかんざし。間違いなく、本物の舞妓だった。

 僕は意を決して話しかける。

「あの、舞妓さんですか?」

「……はい、そうどすけど。何の用どすか?」

 はんなりとした京言葉のイントネーションに、思わず胸が高鳴る。

「後ろ姿の写真を、撮らせて欲しいんです」

 舞妓は小首をかしげ、怪訝そうな顔でこちらを見る。

「えっと、コンテストに応募しようと思っていて。多少の謝礼もお渡ししますから、どうにかお願いできないですか?」

 たどたどしく説明すると、舞妓はふふと微笑んだ。

「仕方ないどすねえ。ほんまはあかんなんどすけど、今日で最後やし、特別どすよ」

 了承を得た僕は、夕日に染まる寺院を背景に舞妓の後ろ姿を何枚か撮った。これなら、と思える出来だ。

 謝礼が入った封筒を渡しつつ、気になっていたことを訊いてみる。

「さっき、今日で最後って言ってましたけど、どういうことですか」

「どうもこうもおまへん。舞妓は、今日で最後なんどす」

 緩やかに頭を振りながら、舞妓はそう答えた。

「そうだ、お兄はんにも1つ、お願いがあるんどす。よろしいどすか?」

 僕は黙って頷く。

「今日はこれから、舞妓ダービーがあるんや」

「……舞妓ダービー?」

 聞き慣れない単語に思わずオウム返しをした僕を見て、舞妓は袖で口元を隠して笑った。

「お兄はん、花街に来てはるのに舞妓ダービーも知らへんのどすか? 舞妓ダービーって言うのんは、文字通り、舞妓が行うレースのこっとす。花街にある置屋が合同で開催してる、京都の舞妓は全員参加の、まあ、マラソン大会みたいなもんどす。勝った舞妓には褒美も出るんどすえ」

 全く知らない催しだった。毎年四月に行われている舞踊公演「都をどり」の前座みたいなものだろうか。

「もちろんうちも走るんやけど、今日こそは絶対に勝ちたいんどす。そやけど、うち、足遅おして……。最後、花見小路に曲がるとこに、順路を示す看板があるんやけど、それをお兄はんに、反対向きにひっくり返しといて欲しいんどす」

 つまり――舞妓ダービーの先頭集団を、反対向きの矢印で間違った順路へと誘導し、後から来る自分だけが正しい方向へと進み、一着でゴールする――という作戦らしい。

 完全な八百長に、手を貸してよいものか考え込んでしまう。

「ほな、用意があるさかい、よろしゅう頼んだで」

「ちょっと、舞妓さん!」

 慌てて呼び止めようとしたが、

「うちの名前はサキどす」

 舞妓はそう言い残すと、足早に寺院を出て行ってしまった。

 サキの言っていた方向指示の立て看板はすぐに見つかった。

 小道を走ってきた舞妓はこの看板に従って花見小路へと曲がり、ゴールである花見小路の入り口まで走るというコースになっているのだろう。

 僕は辺りを見渡し、誰も見ていないことを確認してから、左向きの矢印が書かれた看板を逆さにして軒下に立てかけた。

 これでサキとの約束は果たしたことになる。

 せっかくだし、サキの勇姿を見届けようと思った僕は、その場で舞妓ダービーの開始を待つことにした。

 朱色の空に夜が混ざり始めた頃、花見小路は、にわかにざわめき始めた。

 軒下にはお茶屋から出てきた見物人が並び、何事かを話している。お茶屋の二階の窓にも、通りを見下ろす目が光っていた。

 やがて遠くから、こっこっこっこっ、という音が聞こえだした。

 その音は幾重にも重なり、次第に大きさを増していく。舞妓が履く厚底のおこぼが石畳を蹴る音だ。もう、すぐそこまで来ている。

 小道の奥に、一人二人と、派手な色の着物を着た舞妓が現れた。

 長い裾を両手に持ち、動きづらさを微塵も感じさせないスピードで、ぐんぐんとこちらに迫ってくる。

 先頭集団に続けと、舞妓の大群が小道に溢れる。まるで小川を流れる色とりどりの花びらのようだ。

 彼女らは僕の目前まで来ると、先ほど逆さにした看板に従って、ゴールとは正反対の方向に曲がっていく。

 お茶屋の方からは、なにか揉めているような声が聞こえる。

 舞妓の洪水が過ぎ去った後、若葉色の着物姿のサキが、最後尾でやってきた。

 舞妓ダービーの迫力に圧倒され、呆然としていた僕に対し、サキはすっと頭を下げる。

「騙したりして、かんにんえ」

 花見小路から、男衆の怒号が聞こえた。「待てえ!」と叫びながら、こちらに向かって走ってくる。

 ちらりと男衆を見たあと、サキもゴールとは反対の方向に走り出した。

「ここからが、うちらのほんまのスタートどす!」

 こうして、舞妓の集団は夕闇の中へと消えていった。

 あの日、京都からすべての舞妓が消えた。

 ワイドショーでは連日、舞妓の集団失踪を取り上げ、労働環境の問題や未成年の少女による接客の是非を騒ぎ立てていた。

 だがそれもすぐに沈静化し、今では舞妓など、どこ吹く風だ。

 たまに、舞妓ダービーのことを思い出す。サキは、そして舞妓は、今日もどこかで走り続けているのだろうか……。

 あの写真は、結局コンテストには出さず、処分することにした。

 自分でもとても気に入っている写真だったが、残しておくのはサキに対して申し訳ない気がしたのだ。

 写真を処分したことを、後悔はしていない。

 僕の脳裏に焼き付いた日本最後の舞妓の姿は、きっと、いつまでも色褪せないのだから。

(了)

 

 

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